鎌倉時代の一問一答

鎌倉時代を表すイラスト

鎌倉時代(1185年〜1333年)の、中学受験でよく出るできごと・人物・文化を119問の一問一答にまとめました。問題をタップすると答えと解説が出ます。鎌倉時代は「武士が初めて政治の中心になる」時代です。

全119問・ふりがなつき・2026/10/11 更新

政治64問

中学受験で押さえておきたいポイント5つ
  1. 1幕府ばくふのはじまりは2つの年

    どちらの年も出題されます。その年に何が起きたかとセットで覚えましょう。

    1. 1185年守護しゅご・地頭じとうを置く
    2. 1192年源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍せいいたいしょうぐんになる
  2. 2守護しゅごと地頭じとうのちがい

    どちらも源頼朝みなもとのよりともが朝廷ちょうていに認めさせて置いた役職です。

    守護しゅご地頭じとう
    置いた場所国ごと荘園しょうえん・公領こうりょうごと
    おもな仕事軍事・警察年貢ねんぐの取り立て・土地の管理
  3. 3将軍しょうぐんと御家人ごけにんは「御恩ごおんと奉公ほうこう」

    土地を仲立ちにした主従関係で、この仕組みを封建制度ほうけんせいどといいます。

    将軍しょうぐん御恩ごおん:領地りょうちを認める・新しい領地りょうちを与える奉公ほうこう:戦いに加わる・京都きょうとを守る御家人ごけにん
  4. 4執権しっけんとできごとはセットで

    源氏げんじの将軍しょうぐんは3代で途絶え、北条氏ほうじょうしが執権しっけんとして実権じっけんをにぎりました。

    北条義時ほうじょうよしとき(2代)
    承久じょうきゅうの乱らん(1221年)
    北条泰時ほうじょうやすとき(3代)
    御成敗式目ごせいばいしきもく(1232年)
    北条時宗ほうじょうときむね(8代)
    元寇げんこう(1274・1281年)
    北条貞時ほうじょうさだとき(9代)
    永仁えいにんの徳政令とくせいれい(1297年)
  5. 5承久じょうきゅうの乱らんの流れ

    兵へいをあげたのは後鳥羽とば「上皇じょうこう」です。天皇てんのうではない点に注意しましょう。

    1. 源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ(1219年)
    2. 後鳥羽上皇ごとばじょうこうが兵へいをあげる(1221年)
    3. 北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで幕府ばくふ軍が勝つ
    4. 六波羅探題ろくはらたんだいを置く

名前をこたえる

  1. 1鎌倉幕府かまくらばくふを開いた初代将軍しょうぐんです。平治へいじの乱らんで伊豆いずに流されましたが、1180年に挙兵きょへいして平氏へいしを滅ぼし、1192年に征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなりました。この初代将軍しょうぐんはだれでしょう。

    源頼朝みなもとのよりとも

    源義朝みなもとのよしともの子として生まれ、1159年の平治へいじの乱らんで父が敗れると伊豆いずに流されました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  2. 2源頼朝みなもとのよりともの妻で、北条時政ほうじょうときまさの娘むすめです。頼朝よりともの死後は尼あまとなって幕府ばくふを支え、承久じょうきゅうの乱らんでは御家人ごけにんに団結を呼びかける演説をして「尼あま将軍しょうぐん」と呼ばれました。この人物はだれでしょう。

    北条政子ほうじょうまさこ

    伊豆いずの豪族ごうぞく北条時政ほうじょうときまさの娘むすめで、伊豆いずに流されていた源頼朝みなもとのよりともと結婚しました。

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  3. 3源頼朝みなもとのよりともの弟です。一ノ谷・屋島やしま・壇ノ浦だんのうらの戦いで平氏へいしを破りましたが、兄と対立して奥州藤原氏おうしゅうふじわらしのもとに逃れ、1189年に平泉ひらいずみで自害しました。この人物はだれでしょう。

    源義経みなもとのよしつね

    源義朝みなもとのよしともの子で、幼名は牛若丸です。

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  4. 42代執権しっけんです。北条政子ほうじょうまさこの弟で、父の時政ときまさのあとを継ぎました。承久じょうきゅうの乱らんで後鳥羽上皇ごとばじょうこうの追討命令の標的となりましたが、幕府ばくふ軍を勝利に導き、執権しっけんの地位を固めました。この執権しっけんはだれでしょう。

    北条義時ほうじょうよしとき

    北条時政ほうじょうときまさの子で、北条政子ほうじょうまさこの弟です。

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  5. 51221年に承久じょうきゅうの乱らんを起こして幕府ばくふをたおそうとしましたが敗れ、隠岐おきに流された上皇じょうこうです。和歌わかにすぐれ、『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』の編集を命じたことでも知られます。この上皇じょうこうはだれでしょう。

    後鳥羽上皇ごとばじょうこう

    1183年、平氏へいしが安徳天皇あんとくてんのうを連れて都落ちしたあとに即位し、1198年に位をゆずって上皇じょうこうとなり院政いんせいを行いました。

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  6. 63代執権しっけんです。承久じょうきゅうの乱らんでは幕府ばくふ軍の大将として京都きょうとを攻め、初代の六波羅探題ろくはらたんだいとなりました。1232年に御成敗式目ごせいばいしきもくを定め、評定衆ひょうじょうしゅうを置くなど幕府ばくふの政治の仕組みを整えました。この執権しっけんはだれでしょう。

    北条泰時ほうじょうやすとき

    北条義時ほうじょうよしときの子です。

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  7. 7将軍しょうぐんが御家人ごけにんの領地りょうちを保護したり新しい領地りょうちを与えたりする○○と、御家人ごけにんが将軍しょうぐんのために戦ったり鎌倉かまくらや京都きょうとを警備したりする△△です。この土地を仲立ちとした主従関係を何といいますか。

    御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)

    鎌倉幕府かまくらばくふは、将軍しょうぐんと主従関係を結んだ武士ぶし(御家人ごけにん)によって支えられていました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  8. 81185年、源頼朝みなもとのよりともは弟の義経よしつねをつかまえることを理由に、国ごとに○○、荘園しょうえんや公領こうりょうごとに△△を置くことを朝廷ちょうていに認めさせました。武士ぶしが全国を治める仕組みの始まりです。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    守護しゅご・地頭じとうの設置せっち

    壇ノ浦だんのうらの戦いで平氏へいしを滅ぼした源頼朝みなもとのよりともは、対立した弟の義経よしつねを捕らえるという名目で、後白河法皇ごしらかわほうおうに守護しゅご・地頭じとうの設置せっちを認めさせました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  9. 91189年、源頼朝みなもとのよりともは義経よしつねをかくまった○○を攻め滅ぼしました。これで頼朝よりともに対抗する勢力はなくなり、東北とうほく地方まで支配しはいが広がりました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう

    兄の頼朝よりともと対立した源義経みなもとのよしつねは、平泉ひらいずみの奥州藤原氏おうしゅうふじわらし(藤原秀衡ふじわらのひでひら)のもとに逃れました。

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  10. 101192年、源頼朝みなもとのよりともは朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、鎌倉かまくらに本格的な武士ぶしの政権を開きました。武士ぶしによる政治はこの後約700年続きます。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ

    源頼朝みなもとのよりともは1180年に挙兵きょへいして鎌倉かまくらに本拠地を置き、侍所さむらいどころ・政所まんどころ・問注所もんちゅうじょなどの役所を整えていきました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  11. 111199年、○○が53歳で亡くなり、長男の頼家よりいえが2代将軍しょうぐんとなりました。○○の死をきっかけに、北条氏ほうじょうしをはじめとする御家人ごけにんどうしの争いが始まりました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    源頼朝みなもとのよりともの死

    源頼朝みなもとのよりともは1199年に亡くなりました。

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  12. 12源頼朝みなもとのよりともの死後、将軍しょうぐんを補佐する執権しっけんの地位を北条氏ほうじょうしが代々受けつぎ、幕府ばくふの実権じっけんをにぎった政治です。北条時政ほうじょうときまさに始まり、鎌倉幕府かまくらばくふが滅ぶまで続きました。この説明にあてはまる政治を何といいますか。

    執権政治しっけんせいじ

    源頼朝みなもとのよりともの死後、妻北条政子の父時政が有力御家人ごけにんをおさえて初代執権しっけんとなり、2代義時よしときは承久じょうきゅうの乱らんに勝って幕府ばくふの力を朝廷ちょうていの上に置きました。

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  13. 131219年、3代将軍しょうぐん○○が鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうでおいの公暁くぎょうに殺されました。源氏げんじの将軍しょうぐんは3代で途絶え、その後は京都きょうとから迎えた将軍しょうぐんのもとで北条氏ほうじょうしが実権じっけんをにぎりました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ

    3代将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともは和歌わかを好み、『金槐和歌集』を残した文化人でもありました。

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  14. 141221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。上皇じょうこうは隠岐おきに流され、幕府ばくふの力は西日本にもおよぶようになりました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    承久じょうきゅうの乱らん

    源氏げんじの将軍しょうぐんが途絶えると、朝廷ちょうていの実権じっけんをにぎっていた後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、政治の実権じっけんを朝廷ちょうていに取りもどそうと考え、1221年に執権しっけん北条義時ほうじょうよしときを討てという命令めいれいを全国に出しました。

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  15. 15承久じょうきゅうの乱らんのあと、幕府ばくふは京都きょうとの六波羅ろくはらに○○を置き、朝廷ちょうていの監視と西日本の御家人ごけにんの統率にあたらせました。1333年に足利尊氏あしかがたかうじに攻め落とされるまで続きました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち

    承久じょうきゅうの乱らんに勝った幕府ばくふは、朝廷ちょうていが再び幕府ばくふに対抗しないよう、京都きょうとの六波羅ろくはらに六波羅探題ろくはらたんだいという役所を置きました。

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  16. 161225年、3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときは、執権しっけんを助ける○○と、有力御家人ごけにんが話し合って政治を決める△△を置きました。執権しっけんが一人で決めるのではなく、合議で政治を行う仕組みです。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち

    北条泰時ほうじょうやすときは1224年に3代執権しっけんとなり、翌1225年に北条政子ほうじょうまさこが亡くなると、幕府ばくふの政治の仕組みを整えました。

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  17. 171232年、3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときは、武士ぶしの社会の慣習や頼朝よりとも以来の裁判の先例をもとに、51か条の○○を定めました。日本で最初の武家ぶけの法律です。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい

    承久じょうきゅうの乱らんのあと、幕府ばくふの支配しはいが西日本にも広がると、土地をめぐる争いが増えて裁判の基準が必要になりました。

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  18. 18鎌倉幕府かまくらばくふの8代執権しっけんです。元げんのフビライ・ハンの要求を退け、文永ぶんえいの役えき・弘安こうあんの役えきの二度の元寇げんこうを退けました。禅宗ぜんしゅうを信仰し、鎌倉かまくらに円覚寺えんがくじを建てました。この執権しっけんはだれでしょう。

    北条時宗ほうじょうときむね

    5代執権しっけん北条時頼ほうじょうときよりの子です。

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  19. 19鎌倉幕府かまくらばくふをたおして天皇てんのう中心の政治(建武けんむの新政しんせい)を行った天皇てんのうです。討幕計画が二度失敗して隠岐おきに流されましたが、脱出して1333年に幕府ばくふを滅ぼしました。この天皇てんのうはだれでしょう。

    後醍醐天皇ごだいごてんのう

    1318年に即位し、天皇てんのうが自ら政治を行う体制を目指しました。

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  20. 201331年、後醍醐天皇ごだいごてんのうは再び幕府ばくふをたおそうと笠置山かさぎやまで兵へいをあげましたが敗れ、翌年隠岐に流されました。しかし楠木正成くすのきまさしげらが各地で戦いを続け、幕府ばくふをたおす動きが広がりました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    元弘げんこうの変へん

    正中の変へんのあとも討幕とうばくをあきらめなかった後醍醐天皇ごだいごてんのうは、1331年に計画が再び発覚すると京都きょうとを脱出し、笠置山かさぎやまにこもって兵へいをあげました。

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  21. 211333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して○○は滅びました。約150年続いた武士ぶしの政権が終わりました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう

    元寇げんこうのあと御家人ごけにんの生活は苦しくなり、北条氏ほうじょうしの一族いちぞく(得宗とくそう)に権力が集まったことへの不満も高まっていました。

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  22. 221203年、北条政子ほうじょうまさこの父が2代将軍しょうぐん頼家よりいえを退けて実朝さねともを将軍しょうぐんに立て、将軍しょうぐんを補佐する役職の初代となりました。これ以後、北条氏ほうじょうしが代々この役職について幕府ばくふを動かします。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる

    源頼朝みなもとのよりともの死後、有力御家人ごけにんの間で主導権争いが起こりました。

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  23. 23『承久じょうきゅうの乱らんを起こしたのは○○「上皇じょうこう」。流された先は隠岐おき』という特徴にあてはまる人物はだれでしょう。

    後鳥羽上皇ごとばじょうこう

    1221年に承久じょうきゅうの乱らんを起こして幕府ばくふをたおそうとしましたが敗れ、隠岐おきに流された上皇じょうこうです。

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  24. 24『「いざ鎌倉かまくら」=○○のために御家人ごけにんが鎌倉かまくらへ駆けつけること』という特徴にあてはまるものは何でしょう。

    御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)

    将軍しょうぐんが御家人ごけにんの領地りょうちを保護したり新しい領地りょうちを与えたりする御恩ごおんと、御家人ごけにんが将軍しょうぐんのために戦ったり鎌倉かまくらや京都きょうとを警備したりする奉公ほうこうです。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  25. 25『義経よしつねは○○(藤原秀衡ふじわらのひでひら)にかくまわれ、秀衡ひでひらの死後に泰衡やすひらに攻められた』という特徴にあてはまるできごとは何でしょう。

    奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう

    1189年、源頼朝みなもとのよりともは義経よしつねをかくまった奥州藤原氏おうしゅうふじわらしを攻め滅ぼしました。

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年号をこたえる

  1. 26『守護しゅご・地頭じとうの設置せっち』が起きたのは何年でしょう。

    1185年

    守護しゅご・地頭じとうの設置せっち(1185年)。1185年、源頼朝みなもとのよりともは弟の義経よしつねをつかまえることを理由に、国ごとに守護しゅご、荘園しょうえんや公領こうりょうごとに地頭じとうを置くことを朝廷ちょうていに認めさせました。ごろ合わせ: いい箱(1185)つくろう守護しゅご・地頭じとう

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  2. 27『奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう』が起きたのは何年でしょう。

    1189年

    奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう(1189年)。1189年、源頼朝みなもとのよりともは義経よしつねをかくまった奥州藤原氏おうしゅうふじわらしを攻め滅ぼしました。ごろ合わせ: いい(11)役えき(89)者の最期、義経よしつねが死に奥州藤原氏おうしゅうふじわらしも滅ぶ

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  3. 28源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命されたのは何年でしょう。

    1192年

    鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ(1192年)。1192年、源頼朝みなもとのよりともは朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、鎌倉かまくらに本格的な武士ぶしの政権を開きました。ほかの年で習うこともあります(1192年は源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命された年。1185年(守護しゅご・地頭じとうの設置せっち)を成立せいりつとする説が現在の教科書では有力で、両説をおさえておく)。ごろ合わせ: いい国(1192)つくろう鎌倉幕府かまくらばくふ

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  4. 29『源頼朝みなもとのよりともの死』が起きたのは何年でしょう。

    1199年

    源頼朝みなもとのよりともの死(1199年)。1199年、源頼朝みなもとのよりともが53歳で亡くなり、長男の頼家よりいえが2代将軍しょうぐんとなりました。ごろ合わせ: いい(11)救急(99)でも助からず、頼朝よりともの死

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  5. 30北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになったのは何年でしょう。

    1203年

    北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる(1203年)。1203年、北条政子ほうじょうまさこの父北条時政が、2代将軍しょうぐん頼家よりいえを退けて実朝さねともを将軍しょうぐんに立て、初代の執権しっけんとなりました。ごろ合わせ: 人に王さま(1203)気取り、初代執権しっけん時政ときまさ

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  6. 31『源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ』が起きたのは何年でしょう。

    1219年

    源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ(1219年)。1219年、3代将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともが鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうでおいの公暁くぎょうに殺されました。ごろ合わせ: 人に行く(1219)公暁くぎょう、実朝さねともを討つ

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  7. 32『承久じょうきゅうの乱らん』が起きたのは何年でしょう。

    1221年

    承久じょうきゅうの乱らん(1221年)。1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。ごろ合わせ: 人に不意(1221)打ち承久じょうきゅうの乱らん

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  8. 33『六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち』が起きたのは何年でしょう。

    1221年

    六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち(1221年)。承久じょうきゅうの乱らんのあと、幕府ばくふは京都きょうとの六波羅ろくはらに六波羅探題ろくはらたんだいを置き、朝廷ちょうていの監視と西日本の御家人ごけにんの統率にあたらせました。ごろ合わせ: 人に不意(1221)打ちのあと、見張るは六波羅探題ろくはらたんだい

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  9. 34『評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち』が起きたのは何年でしょう。

    1225年

    評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち(1225年)。1225年、3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときは、執権しっけんを助ける連署れんしょと、有力御家人ごけにんが話し合って政治を決める評定衆ひょうじょうしゅうを置きました。ごろ合わせ: 人に(12)ニコ(25)ニコ相談、評定衆ひょうじょうしゅう

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  10. 35『御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい』が起きたのは何年でしょう。

    1232年

    御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい(1232年)。1232年、3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときは、武士ぶしの社会の慣習や頼朝よりとも以来の裁判の先例をもとに、51か条の御成敗式目ごせいばいしきもくを定めました。ごろ合わせ: いつ身に(1232)つくの式目

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  11. 36『元弘げんこうの変へん』が起きたのは何年でしょう。

    1331年

    元弘げんこうの変へん(1331年)。1331年、後醍醐天皇ごだいごてんのうは再び幕府ばくふをたおそうと笠置山かさぎやまで兵へいをあげましたが敗れ、翌年隠岐に流されました。ごろ合わせ: いざ再(1331)び挙兵きょへい、元弘げんこうの変へん

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  12. 37『鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう』が起きたのは何年でしょう。

    1333年

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう(1333年)。1333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して鎌倉幕府かまくらばくふは滅びました。ごろ合わせ: 遺産さんざん(1333)鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう

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原因と結果

  1. 38『御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    守護しゅご・地頭じとうの設置せっち

    1185年、源頼朝みなもとのよりともは弟の義経よしつねをつかまえることを理由に、国ごとに守護しゅご、荘園しょうえんや公領こうりょうごとに地頭じとうを置くことを朝廷ちょうていに認めさせました。「守護しゅご・地頭じとうの設置せっち」が「御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)」のきっかけになりました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  2. 39『御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)』の結果として起きたことは何でしょう。

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい

    1297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる永仁えいにんの徳政令とくせいれいを出しました。「御恩ごおんと奉公ほうこう(封建制度ほうけんせいど)」のあとに起きたできごとです。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  3. 40『守護しゅご・地頭じとうの設置せっち』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ

    1192年、源頼朝みなもとのよりともは朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、鎌倉かまくらに本格的な武士ぶしの政権を開きました。「守護しゅご・地頭じとうの設置せっち」のあとに起きたできごとです。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  4. 41『奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ

    1192年、源頼朝みなもとのよりともは朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、鎌倉かまくらに本格的な武士ぶしの政権を開きました。「奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの滅亡めつぼう」のあとに起きたできごとです。

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  5. 42『鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    守護しゅご・地頭じとうの設置せっち

    1185年、源頼朝みなもとのよりともは弟の義経よしつねをつかまえることを理由に、国ごとに守護しゅご、荘園しょうえんや公領こうりょうごとに地頭じとうを置くことを朝廷ちょうていに認めさせました。「守護しゅご・地頭じとうの設置せっち」が「鎌倉幕府かまくらばくふの成立せいりつ」のきっかけになりました。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  6. 43『源頼朝みなもとのよりともの死』の結果として起きたことは何でしょう。

    北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる

    1203年、北条政子ほうじょうまさこの父北条時政が、2代将軍しょうぐん頼家よりいえを退けて実朝さねともを将軍しょうぐんに立て、初代の執権しっけんとなりました。「源頼朝みなもとのよりともの死」のあとに起きたできごとです。

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  7. 44北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになったきっかけとなったできごとは何でしょう。

    源頼朝みなもとのよりともの死

    1199年、源頼朝みなもとのよりともが53歳で亡くなり、長男の頼家よりいえが2代将軍しょうぐんとなりました。「源頼朝みなもとのよりともの死」が「北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる」のきっかけになりました。

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  8. 45北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになった結果として起きたことは何でしょう。

    執権政治しっけんせいじ

    源頼朝みなもとのよりともの死後、将軍しょうぐんを補佐する執権しっけんの地位を北条氏ほうじょうしが代々受けつぎ、幕府ばくふの実権じっけんをにぎった政治です。「北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる」のあとに起きたできごとです。

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  9. 46『執権政治しっけんせいじ』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    源頼朝みなもとのよりともの死

    1199年、源頼朝みなもとのよりともが53歳で亡くなり、長男の頼家よりいえが2代将軍しょうぐんとなりました。「源頼朝みなもとのよりともの死」が「執権政治しっけんせいじ」のきっかけになりました。

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  10. 47『執権政治しっけんせいじ』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう

    1333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して鎌倉幕府かまくらばくふは滅びました。「執権政治しっけんせいじ」のあとに起きたできごとです。

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  11. 48『源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる

    1203年、北条政子ほうじょうまさこの父北条時政が、2代将軍しょうぐん頼家よりいえを退けて実朝さねともを将軍しょうぐんに立て、初代の執権しっけんとなりました。「北条時政ほうじょうときまさが執権しっけんになる」が「源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ」のきっかけになりました。

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  12. 49『源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ』の結果として起きたことは何でしょう。

    承久じょうきゅうの乱らん

    1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。「源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ」のあとに起きたできごとです。

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  13. 50『承久じょうきゅうの乱らん』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ

    1219年、3代将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともが鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうでおいの公暁くぎょうに殺されました。「源実朝みなもとのさねともの暗殺あんさつ」が「承久じょうきゅうの乱らん」のきっかけになりました。

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  14. 51『承久じょうきゅうの乱らん』の結果として起きたことは何でしょう。

    六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち

    承久じょうきゅうの乱らんのあと、幕府ばくふは京都きょうとの六波羅ろくはらに六波羅探題ろくはらたんだいを置き、朝廷ちょうていの監視と西日本の御家人ごけにんの統率にあたらせました。「承久じょうきゅうの乱らん」のあとに起きたできごとです。

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  15. 52『六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    承久じょうきゅうの乱らん

    1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。「承久じょうきゅうの乱らん」が「六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち」のきっかけになりました。

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  16. 53『六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう

    1333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して鎌倉幕府かまくらばくふは滅びました。「六波羅探題ろくはらたんだいの設置せっち」のあとに起きたできごとです。

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  17. 54『評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    承久じょうきゅうの乱らん

    1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。「承久じょうきゅうの乱らん」が「評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち」のきっかけになりました。

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  18. 55『評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち』の結果として起きたことは何でしょう。

    御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい

    1232年、3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときは、武士ぶしの社会の慣習や頼朝よりとも以来の裁判の先例をもとに、51か条の御成敗式目ごせいばいしきもくを定めました。「評定衆ひょうじょうしゅう・連署れんしょの設置せっち」のあとに起きたできごとです。

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  19. 56『御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    承久じょうきゅうの乱らん

    1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが幕府ばくふをたおそうと兵へいをあげましたが、北条政子ほうじょうまさこの呼びかけで団結した幕府ばくふ軍に敗れました。「承久じょうきゅうの乱らん」が「御成敗式目ごせいばいしきもくの制定せいてい」のきっかけになりました。

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  20. 57『元弘げんこうの変へん』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう

    1333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して鎌倉幕府かまくらばくふは滅びました。「元弘げんこうの変へん」のあとに起きたできごとです。

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  21. 58『鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい

    1297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる永仁えいにんの徳政令とくせいれいを出しました。「永仁えいにんの徳政令とくせいれい」が「鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう」のきっかけになりました。

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くらべて見分ける

  1. 59守護しゅごと地頭じとうのうち、おもな仕事が『軍事・警察、御家人ごけにんの統率』なのはどちらでしょう。

    守護しゅご

    守護しゅごのおもな仕事は『軍事・警察、御家人ごけにんの統率』です。ほかは地頭じとうが『年貢ねんぐの取り立て、土地の管理』です。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  2. 60『問注所もんちゅうじょ』の仕事は何でしょう。

    裁判

    『問注所もんちゅうじょ』の仕事は裁判です。ほかは侍所さむらいどころが御家人ごけにんの統率・軍事、政所まんどころが政治・財政、六波羅探題ろくはらたんだいが朝廷ちょうていの監視・西国さいごくの御家人ごけにんの統率(1221年〜)です。

    年表で見る読みもの: 守護と地頭のちがい
  3. 61『北条時政ほうじょうときまさ』の代は何でしょう。

    初代

    『北条時政ほうじょうときまさ』の代は初代です。

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  4. 62『北条時政ほうじょうときまさ』のおもなできごとは何でしょう。

    執権政治しっけんせいじを始める(1203)

    『北条時政ほうじょうときまさ』のおもなできごとは執権政治しっけんせいじを始める(1203)です。

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  5. 63乱らんの前と乱らんの後のうち、朝廷ちょうていの力が『上皇じょうこうが実権じっけんをにぎる』なのはどちらでしょう。

    乱らんの前

    乱らんの前の朝廷ちょうていの力は『上皇じょうこうが実権じっけんをにぎる』です。ほかは乱らんの後が『幕府ばくふが朝廷ちょうていを監視(六波羅探題ろくはらたんだい)』です。

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  6. 64乱らんの前と乱らんの後のうち、上皇じょうこう側の領地りょうちが『貴族きぞく・西国さいごく武士ぶしのもの』なのはどちらでしょう。

    乱らんの前

    乱らんの前の上皇じょうこう側の領地りょうちは『貴族きぞく・西国さいごく武士ぶしのもの』です。ほかは乱らんの後が『取り上げて御家人ごけにんに与える(新補地頭)』です。

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外交・世界19問

中学受験で押さえておきたいポイント4つ
  1. 1元寇げんこうは2回。くらべて覚える

    2回のちがいを問う問題がよく出ます。

    文永ぶんえいの役えき弘安こうあんの役えき
    年1274年1281年
    元げん軍約3万人約14万人
    結果一日戦って引きあげる防塁ぼうるいと暴風雨で退く
  2. 2元寇げんこうまでの流れ

    国書こくしょを送ったのは、元げんの皇帝こうていフビライ・ハンです。

    1. 元げんの国書こくしょが届く(1268年)
    2. 北条時宗ほうじょうときむねが返事を出さない
    3. 文永ぶんえいの役えき(1274年)
    4. 防塁ぼうるいを築く
    5. 弘安こうあんの役えき(1281年)
  3. 3元げん軍と日本の戦い方のちがい

    元げん軍は集団戦法や「てつはう」(火薬かやくの武器)を使い、一騎打ちで戦う日本の武士ぶしを苦しめました。その様子は『蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』に描かれています。

  4. 4元寇げんこうが幕府ばくふをおとろえさせた

    外国がいこくから守る戦いだったので、勝っても新しい土地が手に入りませんでした。

    1. 元寇げんこう
    2. 恩賞おんしょうの土地を出せない
    3. 御家人ごけにんの生活が苦しくなる
    4. 永仁えいにんの徳政令とくせいれい(1297年)
    5. 鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう(1333年)

名前をこたえる

  1. 651268年、元げんの皇帝こうてい○○・ハンから日本に従うよう求める△△が届きました。8代執権しっけんとなった北条時宗ほうじょうときむねはこれを無視し、九州きゅうしゅうの御家人ごけにんに守りを固めさせました。この説明にあてはまるできごとは何でしょう。

    元げん(フビライ)の国書こくしょが届く

    モンゴル帝国の5代皇帝こうていフビライ・ハンは、中国北部を支配しはいして国号を元げんと定め、朝鮮半島の高麗こうらいを従えると、高麗こうらいを通じて日本にも国書こくしょを送りました。

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  2. 661274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人が対馬つしま・壱岐いきをおそい、博多湾はかたわんに上陸しました。集団戦法や「てつはう」に苦しんだ幕府ばくふ軍でしたが、元げん軍は一夜で引きあげました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    文永ぶんえいの役えき

    北条時宗ほうじょうときむねが国書こくしょを無視し続けたため、フビライは1274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人を約900隻の船で日本に送りました。

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  3. 67元げんの皇帝こうていフビライ・ハンが日本を従えようとして、1274年(文永ぶんえいの役えき)と1281年(弘安こうあんの役えき)の二度にわたって九州北部に攻めてきたできごとです。日本は二度とも元げん軍を退けました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    元寇げんこう(蒙古襲来もうこしゅうらい)

    13世紀せいき初め、チンギス・ハンが建てたモンゴル帝国はユーラシア大陸たいりくの大部分を支配しはいする大帝国となりました。

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  4. 681281年、元げんは南宋なんそうを滅ぼした軍も加えた約14万人の大軍で再び攻めてきました。日本軍にほんぐんは防塁ぼうるいで上陸を防ぎ、暴風雨で元げんの船団が大きな損害を受けて元げん軍は引きあげました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    弘安こうあんの役えき

    文永ぶんえいの役えきのあとも北条時宗ほうじょうときむねは元げんの要求を拒み、元げんの使者を処刑しました。

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  5. 69「『蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』の竹崎季長たけざきすえながが描かれているのは○○の役えきの場面」という特徴にあてはまるできごとは何でしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    1274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人が対馬つしま・壱岐いきをおそい、博多湾はかたわんに上陸しました。

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  6. 70『○○の役えきは文永ぶんえいの役より大軍(約14万人)。南宋なんそうが滅んだあとの旧南宋なんそう軍も参加』という特徴にあてはまるできごとは何でしょう。

    弘安こうあんの役えき

    1281年、元げんは南宋なんそうを滅ぼした軍も加えた約14万人の大軍で再び攻めてきました。

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年号をこたえる

  1. 71元げん(フビライ)の国書こくしょが届いたのは何年でしょう。

    1268年

    元げん(フビライ)の国書こくしょが届く(1268年)。1268年、元げんの皇帝こうていフビライ・ハンから日本に従うよう求める国書こくしょが届きました。ごろ合わせ: 人に無闇(1268)に国書送るフビライ

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  2. 72『文永ぶんえいの役えき』が起きたのは何年でしょう。

    1274年

    文永ぶんえいの役えき(1274年)。1274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人が対馬つしま・壱岐いきをおそい、博多湾はかたわんに上陸しました。ごろ合わせ: 悲痛な(127)呼(4)びかけ文永ぶんえいの役えき

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  3. 73『弘安こうあんの役えき』が起きたのは何年でしょう。

    1281年

    弘安こうあんの役えき(1281年)。1281年、元げんは南宋なんそうを滅ぼした軍も加えた約14万人の大軍で再び攻めてきました。ごろ合わせ: 人に(12)矢を射る(81)弘安こうあんの役えき

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原因と結果

  1. 74元げん(フビライ)の国書こくしょが届いた結果として起きたことは何でしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    1274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人が対馬つしま・壱岐いきをおそい、博多湾はかたわんに上陸しました。「元げん(フビライ)の国書こくしょが届く」のあとに起きたできごとです。

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  2. 75『文永ぶんえいの役えき』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    元げん(フビライ)の国書こくしょが届く

    1268年、元げんの皇帝こうていフビライ・ハンから日本に従うよう求める国書こくしょが届きました。「元げん(フビライ)の国書こくしょが届く」が「文永ぶんえいの役えき」のきっかけになりました。

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  3. 76『文永ぶんえいの役えき』の結果として起きたことは何でしょう。

    弘安こうあんの役えき

    1281年、元げんは南宋なんそうを滅ぼした軍も加えた約14万人の大軍で再び攻めてきました。「文永ぶんえいの役えき」のあとに起きたできごとです。

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  4. 77『元寇げんこう(蒙古襲来もうこしゅうらい)』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    元げん(フビライ)の国書こくしょが届く

    1268年、元げんの皇帝こうていフビライ・ハンから日本に従うよう求める国書こくしょが届きました。「元げん(フビライ)の国書こくしょが届く」が「元寇げんこう(蒙古襲来もうこしゅうらい)」のきっかけになりました。

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  5. 78『元寇げんこう(蒙古襲来もうこしゅうらい)』の結果として起きたことは何でしょう。

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい

    1297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる永仁えいにんの徳政令とくせいれいを出しました。「元寇げんこう(蒙古襲来もうこしゅうらい)」のあとに起きたできごとです。

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  6. 79『弘安こうあんの役えき』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    1274年、元げんと高麗こうらいの軍約3万人が対馬つしま・壱岐いきをおそい、博多湾はかたわんに上陸しました。「文永ぶんえいの役えき」が「弘安こうあんの役えき」のきっかけになりました。

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  7. 80『弘安こうあんの役えき』の結果として起きたことは何でしょう。

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい

    1297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる永仁えいにんの徳政令とくせいれいを出しました。「弘安こうあんの役えき」のあとに起きたできごとです。

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くらべて見分ける

  1. 81文永ぶんえいの役えきと弘安こうあんの役えきのうち、元げん軍の規模が『約3万人(元げん・高麗こうらい)』なのはどちらでしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    文永ぶんえいの役えきの元げん軍の規模は『約3万人(元げん・高麗こうらい)』です。ほかは弘安こうあんの役えきが『約14万人(元げん・高麗こうらい・旧南宋なんそう)』です。

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  2. 82文永ぶんえいの役えきと弘安こうあんの役えきのうち、結果が『一日戦って元げん軍が引きあげる』なのはどちらでしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    文永ぶんえいの役えきの結果は『一日戦って元げん軍が引きあげる』です。ほかは弘安こうあんの役えきが『暴風雨で元げん軍の船が大損害』です。

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  3. 83文永ぶんえいの役えきと弘安こうあんの役えきのうち、元げん軍の規模が『約3万人(元げん・高麗こうらい)』なのはどちらでしょう。

    文永ぶんえいの役えき

    文永ぶんえいの役えきの元げん軍の規模は『約3万人(元げん・高麗こうらい)』です。ほかは弘安こうあんの役えきが『約14万人(元げん・高麗こうらい・旧南宋なんそう)』です。

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文化・くらし36問

中学受験で押さえておきたいポイント4つ
  1. 1鎌倉文化かまくらぶんかは「力強く写実的」

    武士ぶしの気風を反映した文化で、宋そうの影響も受けました。

    彫刻ちょうこく
    東大寺南大門とうだいじなんだいもんの金剛力士像こんごうりきしぞう(運慶うんけい・快慶かいけいら)
    絵画
    似絵(伝源頼朝像)
    建築
    東大寺南大門とうだいじなんだいもん(大仏様だいぶつよう)・円覚寺えんがくじ舎利殿しゃりでん(禅宗様ぜんしゅうよう)
  2. 2鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょうは3つのグループ

    開いた人・宗派しゅうは・教えの組み合わせは、いちばんよく出る問題です。

    教え宗派しゅうは開いた人
    念仏ねんぶつ(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)浄土宗じょうどしゅう/浄土真宗じょうどしんしゅう/時宗法然ほうねん/親鸞しんらん/一遍いっぺん
    題目だいもく(南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう)日蓮宗にちれんしゅう日蓮にちれん
    座禅ざぜん臨済宗りんざいしゅう/曹洞宗そうとうしゅう栄西えいさい/道元どうげん
  3. 3鎌倉時代かまくらじだいの文学

    平安時代へいあんじだいの『枕草子まくらのそうし』とあわせた三大随筆もよく問われます。

    作品種類作者・編者
    平家物語へいけものがたり軍記物語ぐんきものがたり琵琶法師びわほうしが語り広めた
    方丈記ほうじょうき随筆ずいひつ鴨長明かものちょうめい
    徒然草つれづれぐさ随筆ずいひつ吉田兼好よしだけんこう
    新古今和歌集しんこきんわかしゅう和歌集わかしゅう藤原定家ふじわらのていから(後鳥羽上皇ごとばじょうこうの命令めいれい)
  4. 4奈良ならの大仏だいぶつと取りちがえない

    東大寺とうだいじの大仏だいぶつは奈良時代ならじだいに聖武天皇しょうむてんのうがつくらせたもの、南大門なんだいもんの金剛力士像こんごうりきしぞうは鎌倉時代かまくらじだいに運慶うんけい・快慶かいけいらがつくったものです。

名前をこたえる

  1. 84浄土宗じょうどしゅうを開いた僧そうです。「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と念仏ねんぶつを唱えるだけで、身分に関係なくだれでも極楽浄土ごくらくじょうどに行けると説き、鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょうの先がけとなりました。この僧そうはだれでしょう。

    法然ほうねん

    美作国(岡山県)の武士ぶしの家に生まれ、比叡山ひえいざんで学びました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  2. 85宋そうに渡って禅ぜんを学び、臨済宗りんざいしゅうを日本に伝えた僧そうです。座禅ざぜんによってさとりを開く教えは武士ぶしに広まりました。宋そうから茶の種を持ち帰り、『喫茶養生記きっさようじょうき』を書いたことでも知られます。この僧そうはだれでしょう。

    栄西えいさい

    備中びっちゅう国(岡山県)に生まれ、比叡山ひえいざんで学んだのち二度にわたって宋そうに渡り、禅宗ぜんしゅうを学んで1191年に帰国きこくしました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  3. 86鎌倉時代かまくらじだいを代表する仏師ぶっしです。快慶かいけいらとともに東大寺南大門とうだいじなんだいもんの金剛力士像こんごうりきしぞうをつくりました。力強く写実的な作風で、武士ぶしの時代にふさわしい彫刻ちょうこくを生み出しました。この仏師ぶっしはだれでしょう。

    運慶うんけい

    奈良ならの仏師康慶の子として生まれました。

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  4. 87法然ほうねんの弟子でしで、浄土真宗じょうどしんしゅう(一向宗いっこうしゅう)を開いた僧そうです。阿弥陀仏あみだぶつを信じる心さえあれば、罪深い悪人こそ救われるという悪人正機あくにんしょうきの教えを説きました。この僧そうはだれでしょう。

    親鸞しんらん

    京都きょうとの貴族きぞくの家に生まれ、比叡山ひえいざんで修行しゅぎょうしたのち法然ほうねんの弟子でしとなりました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  5. 88鎌倉時代かまくらじだいに生まれた、念仏ねんぶつ・題目だいもく・座禅ざぜんなど一つの簡単な修行しゅぎょうでだれでも救われると説く新しい仏教ぶっきょうです。浄土宗じょうどしゅう・浄土真宗じょうどしんしゅう・時宗・日蓮宗にちれんしゅう・臨済宗りんざいしゅう・曹洞宗そうとうしゅうの6つの宗派しゅうはがあります。この説明にあてはまる仏教ぶっきょうを何といいますか。

    鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう

    平安時代へいあんじだいの仏教ぶっきょうは貴族きぞくのためのもので、難しい教えや厳しい修行しゅぎょうが必要でした。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  6. 89武士ぶしの気風を反映した、力強く写実的な文化です。金剛力士像こんごうりきしぞうなどの彫刻ちょうこく、『平家物語へいけものがたり』などの軍記物語ぐんきものがたり、宋そうから伝わった禅宗ぜんしゅうや新しい建築様式が特徴は何でしょう。

    鎌倉文化かまくらぶんか

    鎌倉時代かまくらじだいには、政治の実権じっけんをにぎった武士ぶしの力強く素朴な気風を反映した文化が生まれました。

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  7. 90宋そうで禅ぜんを学び、曹洞宗そうとうしゅうを日本に伝えた僧そうです。ひたすら座禅ざぜんに打ちこむ只管打坐しかんたざを説き、幕府ばくふや朝廷ちょうていから離れて福井県に永平寺えいへいじを建てました。この僧そうはだれでしょう。

    道元どうげん

    京都きょうとの貴族きぞくの家に生まれ、比叡山ひえいざんや建仁寺けんにんじで学んだのち、1223年に宋そうに渡って禅ぜんを学び、1227年に帰国きこくしました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  8. 91平氏へいしに焼かれた東大寺とうだいじを復興するとき建てられた南大門なんだいもんと、その両わきに立つ○○です。運慶うんけい・快慶かいけいらがつくった高さ約8mの像で、鎌倉かまくら彫刻ちょうこくの力強さを代表します。この説明にあてはまる像を何といいますか。

    東大寺南大門とうだいじなんだいもん・金剛力士像こんごうりきしぞう

    1180年、平清盛たいらのきよもりの子重衡が奈良ならを攻めた際、東大寺とうだいじや興福寺こうふくじは焼き払われました。

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  9. 92後鳥羽上皇ごとばじょうこうの命令めいれいで、藤原定家ふじわらのていからが編集した和歌集わかしゅうです。約2000首を集め、技巧をこらした優美な歌風が特徴で、勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうの中でも高く評価されています。この説明にあてはまる和歌集わかしゅうを何といいますか。

    新古今和歌集しんこきんわかしゅう

    1205年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの命令めいれいによって藤原定家ふじわらのていか・藤原家隆らが編集した8番目の勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうで、約2000首の歌を収めています。

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  10. 93鴨長明かものちょうめいが書いた随筆ずいひつです。「ゆく河の流れは絶えずして」の書き出しで知られ、大火や地震などの災害を体験した作者が、世の中のはかなさをつづりました。この説明にあてはまる随筆ずいひつを何といいますか。

    方丈記ほうじょうき

    作者の鴨長明かものちょうめいは京都きょうとの下鴨神社の神職の家に生まれましたが、神職につけずに出家しゅっけし、京都郊外の日野に方丈(約3m四方)の小さな庵を結んで暮らしました。

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  11. 94平氏へいしの栄えと滅びを描いた軍記物語ぐんきものがたりです。「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声」の書き出しで知られ、琵琶法師びわほうしが琵琶びわをひきながら語り広めたので、文字の読めない人々にも親しまれました。この説明にあてはまる軍記物語ぐんきものがたりを何といいますか。

    平家物語へいけものがたり

    平清盛たいらのきよもりを中心とする平氏へいし一族いちぞくの栄えと、源平の戦いによる滅びを描いた軍記物語ぐんきものがたりで、鎌倉時代前期に成立せいりつしました。

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  12. 95時宗を開いた僧そうです。念仏ねんぶつを唱えながら踊る踊念仏おどりねんぶつを民衆みんしゅうに広め、念仏ねんぶつの札を配りながら全国を歩いて布教ふきょうしたので遊行上人ゆぎょうしょうにんと呼ばれました。この僧そうはだれでしょう。

    一遍いっぺん

    伊予いよ国(愛媛県)の武士ぶしの家に生まれ、浄土教じょうどきょうを学びました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  13. 96鎌倉かまくらの○○にある高さ約11mの銅づくりの阿弥陀如来あみだにょらい像です。1252年に鋳造が始められました。もとは大仏殿だいぶつでんの中にありましたが、地震や津波で建物が失われ、今は屋外に座っています。この説明にあてはまる阿弥陀如来あみだにょらい像を何といいますか。

    鎌倉大仏かまくらだいぶつ(高徳院こうとくいん)

    高徳院こうとくいんの本尊ほんぞんである阿弥陀如来あみだにょらい像で、高さは約11m、重さは約121tあります。

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  14. 971282年、8代執権しっけん北条時宗ほうじょうときむねが、宋そうから招いた僧そう無学祖元むがくそげんを開山として鎌倉かまくらに建てた臨済宗りんざいしゅうの寺です。元寇げんこうの戦死者をとむらう目的もありました。舎利殿しゃりでんは禅宗様ぜんしゅうようの建築として知られます。この説明にあてはまる寺を何といいますか。

    円覚寺えんがくじ

    北条時宗ほうじょうときむねは禅宗ぜんしゅうを深く信仰し、弘安こうあんの役えきの翌年の1282年、南宋なんそうから招いた無学祖元むがくそげんを開山として鎌倉かまくらに円覚寺えんがくじを建てました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  15. 98肥後ひご国(熊本県)の御家人ごけにん竹崎季長たけざきすえながが、元寇げんこうでの自分の活躍を描かせた絵巻物えまきものです。てつはうが爆発する場面や元げん軍の集団戦法など、当時の戦いの様子が分かる貴重な資料です。この説明にあてはまる絵巻物えまきものを何といいますか。

    蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば

    肥後ひご国の御家人ごけにん竹崎季長たけざきすえながは、文永ぶんえいの役えきでわずか5騎で元げん軍に突入して手柄を立てましたが恩賞おんしょうがもらえず、鎌倉かまくらまで行って幕府ばくふに直接うったえて地頭じとうに任命されました。

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  16. 991297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる○○を出しました。しかし効果は一時的で、かえって混乱を招きました。この説明にあてはまるできごとを何といいますか。

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい

    元寇げんこうでは新しい土地が得られなかったため、幕府ばくふは戦った御家人ごけにんに十分な恩賞おんしょうを与えられませんでした。

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  17. 100吉田兼好よしだけんこう(兼好法師けんこうほうし)が書いた随筆ずいひつです。「つれづれなるままに」の書き出しで知られ、人生や自然、世の中のできごとについての考えを自由につづりました。この説明にあてはまる随筆ずいひつを何といいますか。

    徒然草つれづれぐさ

    作者の吉田兼好よしだけんこう(兼好法師けんこうほうし)は京都きょうとの神職の家に生まれ、朝廷ちょうていに仕えたのち出家しゅっけしました。

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  18. 101「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」と題目だいもくを唱えれば救われると説いて法華宗ほっけしゅうを開いた僧そうです。他の宗派しゅうはを激しく批判したため幕府ばくふから弾圧され、佐渡さどに流されました。この僧そうはだれでしょう。

    日蓮にちれん

    安房国(千葉県)の漁師の家に生まれ、各地で学んだのち、1253年に法華経こそが正しい教えであると説いて日蓮宗にちれんしゅうを開きました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  19. 102『東大寺南大門とうだいじなんだいもん・金剛力士像こんごうりきしぞう』をつくった人物はだれでしょう。

    運慶うんけい

    東大寺南大門とうだいじなんだいもん・金剛力士像こんごうりきしぞう(1203年)。平氏へいしに焼かれた東大寺とうだいじを復興するとき建てられた南大門なんだいもんと、その両わきに立つ金剛力士像こんごうりきしぞうです。つくった人物は運慶うんけいです。

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  20. 103『幕府ばくふと結びついた臨済宗りんざいしゅうに対し、○○は権力から離れて修行しゅぎょうした』という特徴にあてはまる人物はだれでしょう。

    道元どうげん

    宋そうで禅ぜんを学び、曹洞宗そうとうしゅうを日本に伝えた僧そうです。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  21. 104『三大随筆:枕草子まくらのそうし(清少納言せいしょうなごん・平安へいあん)、○○(鴨長明かものちょうめい・鎌倉かまくら)、徒然草つれづれぐさ(吉田兼好よしだけんこう・鎌倉かまくら末)』という特徴にあてはまる随筆ずいひつは何でしょう。

    方丈記ほうじょうき

    鴨長明かものちょうめいが書いた随筆ずいひつです。

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  22. 105『鎌倉かまくらの○○にある阿弥陀如来あみだにょらい像。大仏殿だいぶつでんがなく屋外にある理由(地震・津波)』という特徴にあてはまる阿弥陀如来あみだにょらい像は何でしょう。

    鎌倉大仏かまくらだいぶつ(高徳院こうとくいん)

    鎌倉かまくらの高徳院こうとくいんにある高さ約11mの銅づくりの阿弥陀如来あみだにょらい像です。

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  23. 106念仏ねんぶつを唱えればだれでも極楽浄土ごくらくじょうどに行けると説き、知恩院ちおんいんを中心寺院じいんとしました。弟子でしの親鸞しんらんは、のちに浄土真宗じょうどしんしゅうを開きます。この僧そうはだれでしょう。

    法然ほうねん

    美作国(岡山県)の武士ぶしの家に生まれ、比叡山ひえいざんで学びました。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)

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  1. 107『東大寺南大門とうだいじなんだいもん・金剛力士像こんごうりきしぞう』がつくられたのは何年でしょう。

    1203年

    東大寺南大門とうだいじなんだいもん・金剛力士像こんごうりきしぞう(1203年)。平氏へいしに焼かれた東大寺とうだいじを復興するとき建てられた南大門なんだいもんと、その両わきに立つ金剛力士像こんごうりきしぞうです。

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  2. 108『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』がつくられたのは何年でしょう。

    1205年

    新古今和歌集しんこきんわかしゅう(1205年)。後鳥羽上皇ごとばじょうこうの命令めいれいで、藤原定家ふじわらのていからが編集した和歌集わかしゅうです。

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  3. 109『方丈記ほうじょうき』がつくられたのは何年でしょう。

    1212年

    方丈記ほうじょうき(1212年)。鴨長明かものちょうめいが書いた随筆ずいひつです。

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  4. 110『鎌倉大仏かまくらだいぶつ(高徳院こうとくいん)』がつくられたのは何年でしょう。

    1252年

    鎌倉大仏かまくらだいぶつ(高徳院こうとくいん)(1252年)。鎌倉かまくらの高徳院こうとくいんにある高さ約11mの銅づくりの阿弥陀如来あみだにょらい像です。

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  5. 111『円覚寺えんがくじ』がつくられたのは何年でしょう。

    1282年

    円覚寺えんがくじ(1282年)。1282年、8代執権しっけん北条時宗ほうじょうときむねが、宋そうから招いた僧そう無学祖元むがくそげんを開山として鎌倉かまくらに建てた臨済宗りんざいしゅうの寺です。

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  6. 112『永仁えいにんの徳政令とくせいれい』が起きたのは何年でしょう。

    1297年

    永仁えいにんの徳政令とくせいれい(1297年)。1297年、幕府ばくふは生活に苦しむ御家人ごけにんを救うため、御家人ごけにんが手放した土地をただで取りもどせる永仁えいにんの徳政令とくせいれいを出しました。ごろ合わせ: 皮肉な(1297)法令、永仁えいにんの徳政令とくせいれい

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原因と結果

  1. 113『永仁えいにんの徳政令とくせいれい』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    弘安こうあんの役えき

    1281年、元げんは南宋なんそうを滅ぼした軍も加えた約14万人の大軍で再び攻めてきました。「弘安こうあんの役えき」が「永仁えいにんの徳政令とくせいれい」のきっかけになりました。

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  2. 114『永仁えいにんの徳政令とくせいれい』の結果として起きたことは何でしょう。

    鎌倉幕府かまくらばくふの滅亡めつぼう

    1333年、後醍醐天皇ごだいごてんのうの呼びかけに応じた足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題ろくはらたんだいを、新田義貞にったよしさだが鎌倉かまくらを攻め落とし、北条高時ほうじょうたかときらが自害して鎌倉幕府かまくらばくふは滅びました。「永仁えいにんの徳政令とくせいれい」のあとに起きたできごとです。

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くらべて見分ける

  1. 115『浄土宗じょうどしゅう』の開祖かいそは何でしょう。

    法然ほうねん

    『浄土宗じょうどしゅう』の開祖かいそは法然ほうねんです。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  2. 116『浄土宗じょうどしゅう』の教え・修行しゅぎょうは何でしょう。

    念仏ねんぶつ(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)を唱える

    『浄土宗じょうどしゅう』の教え・修行しゅぎょうは「念仏ねんぶつ(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)を唱える」です。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  3. 117『浄土宗じょうどしゅう』の中心寺院じいんは何でしょう。

    知恩院ちおんいん(京都きょうと)

    『浄土宗じょうどしゅう』の中心寺院じいんは知恩院ちおんいん(京都きょうと)です。

    年表で見る読みもの: 鎌倉新仏教6宗のちがい(浄土宗と浄土真宗・臨済宗と曹洞宗)
  4. 118『軍記物語ぐんきものがたり』の作品は何でしょう。

    平家物語へいけものがたり

    『軍記物語ぐんきものがたり』の作品は平家物語へいけものがたりです。

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  5. 119『軍記物語ぐんきものがたり』の作者・関係人物は何でしょう。

    作者不明(琵琶法師びわほうしが語る)

    『軍記物語ぐんきものがたり』の作者・関係人物は作者不明(琵琶法師びわほうしが語る)です。

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鎌倉時代の読みもの

まぎらわしい用語のちがいを、表と図でくらべて読めます。

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