江戸の三大改革のちがい(享保・寛政・天保)

江戸の三大改革は、苦しくなった幕府の財政を立て直そうとした3つの改革です。1716年からの享保の改革は8代将軍徳川吉宗、1787年からの寛政の改革は老中松平定信、1841年からの天保の改革は老中水野忠邦が行いました。将軍が自分で行ったのは享保の改革だけで、あとの2つは老中が中心です。
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| 享保の改革 | 寛政の改革 | 天保の改革 | |
|---|---|---|---|
| 中心となった人物 | 徳川吉宗(8代将軍) | 松平定信(老中) | 水野忠邦(老中) |
| 始まった年 | 1716年 | 1787年 | 1841年 |
| おもな政策 | 目安箱・上米の制・公事方御定書 | 囲い米・棄捐令・寛政異学の禁 | 株仲間の解散・人返しの法・上知令 |
見分けるときは、まず「だれが行ったか」と「将軍か老中か」をセットで覚えます。享保の改革は8代将軍の吉宗が自分で行った改革、寛政の改革と天保の改革は、将軍のもとで政治を動かす老中が行った改革です。
年の順に見る
3つの改革は、1716年から1841年までのあいだに、とびとびに行われました。享保の改革のあと、幕府の財政は再び苦しくなり、田沼意次が商業の力で収入をふやそうとしました。その田沼の政治は、天明のききんのさなかに終わり、そのあとに寛政の改革が始まります。天保の改革も、天保のききんと大塩平八郎の乱のあとに始まりました。寛政と天保の2つの改革は、どちらも大ききんのあとに行われたのです。
享保の改革(徳川吉宗)
江戸時代の半ばになると、幕府は収入が減り、財政が苦しくなっていました。1716年、御三家の一つ紀伊藩(和歌山県)の藩主だった徳川吉宗が8代将軍となり、改革を始めました。
吉宗は自ら質素な生活をして倹約をすすめ、新田開発で年貢を増やしました。大名に1万石につき100石の米を納めさせる上米の制では、そのかわりに参勤交代で江戸にいる期間を1年から半年に短くしました。家がらが低くても能力のある人を取り立てる足高の制も定めました。
庶民の意見を聞くために、江戸の評定所の前に目安箱を置き、投書をもとに貧しい病人のための小石川養生所がつくられました。また、それまでの判決の例をもとに、裁判の基準となる公事方御定書をまとめさせました。米の値段の安定に努めたので「米将軍」とよばれました。これらの改革によって幕府の財政は一時立ち直り、享保の改革は、のちの寛政の改革・天保の改革の手本とされました。
年号の語呂合わせ1716年
ひなんいろ(1716)いろ、享保の改革
寛政の改革(松平定信)
1787年、吉宗の孫で白河藩(福島県)の藩主だった松平定信が老中になりました。定信は白河藩で天明のききんの対策に力を入れて名声を得た人物で、祖父吉宗の政治を手本に改革を行いました。
ききんに備えて大名に米をたくわえさせる囲い米を命じ、生活に苦しむ旗本・御家人が商人からした借金を帳消しにする棄捐令を出しました。1790年には寛政異学の禁を出し、幕府の学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じました。身分の上下を重んじる朱子学で、武士の心を引きしめようとしたのです。
しかし、倹約や出版の取りしまりがきびしすぎて人々の反発を受け、定信は1793年、6年ほどで老中をやめました。そのきびしさは、「白河の清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」という狂歌で皮肉られました。
年号の語呂合わせ1787年
ひなんはな(1787)はだしい、寛政の改革
天保の改革(水野忠邦)
1833年ごろから天保のききんが続き、全国で多くの人がうえ死にしました。1837年には大阪で、幕府の元役人だった大塩平八郎が反乱を起こし、幕府の力の弱まりがはっきりしました。
1841年、12代将軍徳川家慶のもとで、浜松藩(静岡県)の藩主から老中になった水野忠邦が改革を始めました。きびしい倹約令を出してぜいたくを禁じ、物価が上がるのは株仲間が商品を独占しているためだと考えて、株仲間を解散させました。また、江戸に出てきた農民を村に帰らせる人返しの法を出し、江戸・大阪の周りの土地を幕府の領地にしようとする上知令も出しました。
しかし、株仲間の解散で商品の流通が混乱し、上知令には大名や旗本が強く反対しました。忠邦は1843年に老中をやめさせられ、改革は2年ほどで失敗に終わりました。
年号の語呂合わせ1841年
いやよ、い(1841)きすぎた倹約 天保の改革
あいだにある田沼意次の政治
享保の改革と寛政の改革のあいだには、田沼意次の政治があります。田沼は将軍の側用人から出世して、10代将軍徳川家治のもとで1772年に老中になりました。三大改革がどれも倹約をすすめたのに対して、田沼は米の年貢だけにたよらず、商業をさかんにして幕府の収入をふやそうとしました。
| 田沼意次 | 松平定信 | |
|---|---|---|
| 政治の方針 | 商業をさかんにして収入をふやす | 倹約を命じて農村を立て直す |
| おもな政策 | 株仲間の奨励・長崎貿易の拡大 | 囲い米・棄捐令・寛政異学の禁 |
田沼は、商人の同業者の組合である株仲間を認めて営業税を取り、長崎での貿易では銅や俵物(海産物)を輸出して金や銀を輸入しました。印旛沼(千葉県)の干拓を進め、蝦夷地(北海道)の調査も行いました。しかし、わいろが広がったと批判され、天明のききんで百姓一揆や打ちこわしが続く中、1786年に老中をやめさせられました。
株仲間への対応は、田沼の政治と天保の改革で正反対です。
| 田沼意次の政治 | 天保の改革 | |
|---|---|---|
| 株仲間への対応 | 株仲間を認めて営業税を取った | 物価を下げるため株仲間を解散させた |
入試のポイント
享保の改革
- 8代将軍徳川吉宗が、幕府の財政を立て直すために行いました。
- ぜいたくをいましめて倹約をすすめ、新田開発で年貢を増やしました。
- 庶民の意見を聞くための目安箱を設けました。
- 裁判の基準として公事方御定書をまとめました。
寛政の改革
- ききんに備えて、大名に米をたくわえさせる囲い米を命じました。
- 旗本・御家人が商人からした借金を帳消しにする棄捐令を出しました。
- 寛政異学の禁を出して、幕府の学問所では朱子学だけを教えさせました。
- 「白河の清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」という狂歌で、きびしさが皮肉られました。
天保の改革
- 物価を下げるために、商人の同業者の組合である株仲間を解散させました。
- 江戸に出てきた農民を村に帰らせる人返しの法を出しました。
- 江戸・大阪の周りを幕府の領地にしようとした上知令は、大名や旗本の反対で失敗しました。
よくあるまちがい
中心人物を取りちがえる
享保の改革は徳川吉宗、寛政の改革は松平定信、天保の改革は水野忠邦です。年の順に「吉宗 → 定信 → 忠邦」と並べて覚えましょう。定信は吉宗の孫で、祖父の政治を手本にしたので、享保と寛政はつなげて覚えやすい組み合わせです。
将軍か老中かをまちがえる
3人のうち将軍は吉宗だけで、定信と忠邦は老中です。「松平定信は何代将軍か」のように考えてしまわないよう注意しましょう。田沼意次も将軍ではなく老中です。また、田沼の政治は三大改革には数えません。
政策の取りちがえ
目安箱・上米の制・公事方御定書は享保の改革、囲い米・棄捐令・寛政異学の禁は寛政の改革、株仲間の解散・人返しの法・上知令は天保の改革です。とくに株仲間は、田沼意次が「認めた」のに対し、水野忠邦は「解散させた」ので、どちらの政治の話かを必ず確かめましょう。
確認問題
答えを考えてから、問題をタップして答えと解説を確かめましょう。
享保の改革
Q1徳川吉宗が8代将軍となり、享保の改革を始めたのは何年でしょう。
1716年
享保の改革(1716年)。8代将軍徳川吉宗が行った政治の改革です。ごろ合わせ: ひなんいろ(1716)いろ、享保の改革
Q2『享保の改革』の中心人物は何でしょう。
8代将軍徳川吉宗
『享保の改革』の中心人物は8代将軍徳川吉宗です。ほかは寛政の改革が老中松平定信、天保の改革が老中水野忠邦です。
寛政の改革・天保の改革
Q1『寛政の改革』が起きたのは何年でしょう。
1787年
寛政の改革(1787年)。老中の松平定信が、天明のききんで乱れた世の中と幕府の財政を立て直すために行った改革です。ごろ合わせ: ひなんはな(1787)はだしい、寛政の改革
Q2『天保の改革』が起きたのは何年でしょう。
1841年
天保の改革(1841年)。老中の水野忠邦が、天保のききんのあとの社会と幕府の財政を立て直すために行った改革です。ごろ合わせ: いやよ、い(1841)きすぎた倹約 天保の改革
Q3『寛政の改革』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。
天明のききん
冷害や浅間山の大噴火で米がとれなくなり、東北地方を中心に多くの人がうえ死にした大ききんです。「天明のききん」が「寛政の改革」のきっかけになりました。
つぎのステップ
年代と内容は、教科書・塾教材の記述にそろえた学習用のものです。異説がある年は、年表アプリの項目の中に記しています。まちがいを見つけたらお問い合わせから教えてください。