江戸の三大改革のちがい(享保・寛政・天保)

ちがい江戸時代後期政治

江戸の三大改革のちがい(享保・寛政・天保)の要点をまとめたイラスト

江戸の三大改革は、苦しくなった幕府の財政を立て直そうとした3つの改革です。1716年からの享保の改革は8代将軍徳川吉宗、1787年からの寛政の改革は老中松平定信、1841年からの天保の改革は老中水野忠邦が行いました。将軍が自分で行ったのは享保の改革だけで、あとの2つは老中が中心です。

2026/10/11 公開・ふりがなつき

表でくらべる

享保きょうほうの改革かいかく寛政かんせいの改革かいかく天保てんぽうの改革かいかく
中心となった人物徳川吉宗とくがわよしむね(8代将軍しょうぐん)松平定信まつだいらさだのぶ(老中ろうじゅう)水野忠邦みずのただくに(老中ろうじゅう)
始まった年1716年1787年1841年
おもな政策目安箱めやすばこ・上米あげまいの制・公事方御定書くじかたおさだめがき囲い米・棄捐令・寛政異学かんせいいがくの禁株仲間の解散・人返しの法・上知令
年表で「寛政の改革」を見る

見分けるときは、まず「だれが行ったか」と「将軍しょうぐんか老中ろうじゅうか」をセットで覚えます。享保きょうほうの改革かいかくは8代将軍しょうぐんの吉宗が自分で行った改革かいかく、寛政かんせいの改革かいかくと天保てんぽうの改革かいかくは、将軍しょうぐんのもとで政治を動かす老中ろうじゅうが行った改革かいかくです。

年の順に見る

  1. 1716年享保きょうほうの改革かいかく
  2. 1772年田沼意次たぬまおきつぐが老中ろうじゅうになる
  3. 1782年天明てんめいのききん
  4. 1787年寛政かんせいの改革かいかく
  5. 1833年天保てんぽうのききん
  6. 1837年大塩平八郎おおしおへいはちろうの乱らん
  7. 1841年天保てんぽうの改革かいかく

3つの改革かいかくは、1716年から1841年までのあいだに、とびとびに行われました。享保きょうほうの改革かいかくのあと、幕府ばくふの財政は再び苦しくなり、田沼意次が商業の力で収入をふやそうとしました。その田沼の政治は、天明てんめいのききんのさなかに終わり、そのあとに寛政かんせいの改革かいかくが始まります。天保てんぽうの改革かいかくも、天保てんぽうのききんと大塩平八郎の乱のあとに始まりました。寛政かんせいと天保てんぽうの2つの改革かいかくは、どちらも大ききんのあとに行われたのです。

享保の改革(徳川吉宗)

江戸時代えどじだいの半ばになると、幕府ばくふは収入が減り、財政が苦しくなっていました。1716年、御三家の一つ紀伊藩(和歌山県)の藩主だった徳川吉宗が8代将軍しょうぐんとなり、改革かいかくを始めました。

吉宗は自ら質素な生活をして倹約をすすめ、新田開発しんでんかいはつで年貢ねんぐを増やしました。大名だいみょうに1万石につき100石の米を納めさせる上米の制では、そのかわりに参勤交代さんきんこうたいで江戸えどにいる期間を1年から半年に短くしました。家がらが低くても能力のある人を取り立てる足高の制も定めました。

庶民しょみんの意見を聞くために、江戸えどの評定所の前に目安箱を置き、投書をもとに貧しい病人のための小石川養生所がつくられました。また、それまでの判決の例をもとに、裁判の基準となる公事方御定書をまとめさせました。米の値段の安定に努めたので「米将軍」とよばれました。これらの改革かいかくによって幕府ばくふの財政は一時立ち直り、享保きょうほうの改革かいかくは、のちの寛政かんせいの改革かいかく・天保てんぽうの改革かいかくの手本とされました。

年号の語呂合わせ1716年

ひなんいろ(1716)いろ、享保きょうほうの改革かいかく

寛政の改革(松平定信)

1787年、吉宗の孫で白河藩(福島県)の藩主だった松平定信が老中ろうじゅうになりました。定信は白河藩で天明てんめいのききんの対策に力を入れて名声を得た人物で、祖父吉宗の政治を手本に改革かいかくを行いました。

ききんに備えて大名だいみょうに米をたくわえさせる囲い米を命じ、生活に苦しむ旗本・御家人ごけにんが商人からした借金しゃっきんを帳消しにする棄捐令を出しました。1790年には寛政異学の禁を出し、幕府ばくふの学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じました。身分の上下を重んじる朱子学で、武士ぶしの心を引きしめようとしたのです。

しかし、倹約や出版の取りしまりがきびしすぎて人々の反発を受け、定信は1793年、6年ほどで老中ろうじゅうをやめました。そのきびしさは、「白河しらかわの清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」という狂歌で皮肉られました。

年号の語呂合わせ1787年

ひなんはな(1787)はだしい、寛政かんせいの改革かいかく

天保の改革(水野忠邦)

1833年ごろから天保のききんが続き、全国で多くの人がうえ死にしました。1837年には大阪おおさかで、幕府ばくふの元げん役人やくにんだった大塩平八郎おおしおへいはちろうが反乱はんらんを起こし、幕府ばくふの力の弱まりがはっきりしました。

1841年、12代将軍徳川家慶のもとで、浜松藩(静岡県)の藩主から老中ろうじゅうになった水野忠邦が改革かいかくを始めました。きびしい倹約令を出してぜいたくを禁じ、物価が上がるのは株仲間が商品を独占しているためだと考えて、株仲間を解散させました。また、江戸えどに出てきた農民のうみんを村に帰らせる人返しの法を出し、江戸えど・大阪おおさかの周りの土地を幕府ばくふの領地りょうちにしようとする上知令も出しました。

しかし、株仲間の解散で商品の流通が混乱し、上知令には大名だいみょうや旗本が強く反対しました。忠邦は1843年に老中ろうじゅうをやめさせられ、改革かいかくは2年ほどで失敗に終わりました。

年号の語呂合わせ1841年

いやよ、い(1841)きすぎた倹約 天保てんぽうの改革かいかく

あいだにある田沼意次の政治

享保きょうほうの改革かいかくと寛政かんせいの改革かいかくのあいだには、田沼意次たぬまおきつぐの政治があります。田沼は将軍しょうぐんの側用人から出世して、10代将軍徳川家治のもとで1772年に老中ろうじゅうになりました。三大改革がどれも倹約をすすめたのに対して、田沼は米の年貢ねんぐだけにたよらず、商業をさかんにして幕府ばくふの収入をふやそうとしました。

田沼意次たぬまおきつぐ松平定信まつだいらさだのぶ
政治の方針商業をさかんにして収入をふやす倹約を命じて農村を立て直す
おもな政策株仲間の奨励・長崎ながさき貿易ぼうえきの拡大囲い米・棄捐令・寛政異学かんせいいがくの禁
年表で「田沼意次」を見る

田沼は、商人の同業者の組合である株仲間を認めて営業税を取り、長崎ながさきでの貿易ぼうえきでは銅どうや俵物(海産物)を輸出して金や銀を輸入しました。印旛沼(千葉県)の干拓を進め、蝦夷地(北海道)の調査も行いました。しかし、わいろが広がったと批判され、天明てんめいのききんで百姓一揆ひゃくしょういっきや打ちこわしが続く中、1786年に老中ろうじゅうをやめさせられました。

株仲間への対応は、田沼の政治と天保てんぽうの改革かいかくで正反対です。

田沼意次たぬまおきつぐの政治天保てんぽうの改革かいかく
株仲間への対応株仲間を認めて営業税を取った物価を下げるため株仲間を解散させた
年表で「天保の改革」を見る

入試のポイント

享保の改革

  • 8代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねが、幕府ばくふの財政を立て直すために行いました。
  • ぜいたくをいましめて倹約をすすめ、新田開発しんでんかいはつで年貢ねんぐを増やしました。
  • 庶民しょみんの意見を聞くための目安箱めやすばこを設けました。
  • 裁判の基準として公事方御定書くじかたおさだめがきをまとめました。

寛政の改革

  • ききんに備えて、大名だいみょうに米をたくわえさせる囲い米を命じました。
  • 旗本・御家人ごけにんが商人からした借金しゃっきんを帳消しにする棄捐令を出しました。
  • 寛政異学かんせいいがくの禁を出して、幕府ばくふの学問所では朱子学だけを教えさせました。
  • 「白河しらかわの清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」という狂歌で、きびしさが皮肉られました。

天保の改革

  • 物価を下げるために、商人の同業者の組合である株仲間を解散させました。
  • 江戸えどに出てきた農民のうみんを村に帰らせる人返しの法を出しました。
  • 江戸えど・大阪おおさかの周りを幕府ばくふの領地りょうちにしようとした上知令は、大名だいみょうや旗本の反対で失敗しました。

よくあるまちがい

中心人物を取りちがえる

享保きょうほうの改革かいかくは徳川吉宗とくがわよしむね、寛政かんせいの改革かいかくは松平定信まつだいらさだのぶ、天保てんぽうの改革かいかくは水野忠邦みずのただくにです。年の順に「吉宗 → 定信 → 忠邦」と並べて覚えましょう。定信は吉宗の孫で、祖父の政治を手本にしたので、享保きょうほうと寛政かんせいはつなげて覚えやすい組み合わせです。

将軍か老中かをまちがえる

3人のうち将軍しょうぐんは吉宗だけで、定信と忠邦は老中ろうじゅうです。「松平定信まつだいらさだのぶは何代将軍しょうぐんか」のように考えてしまわないよう注意しましょう。田沼意次たぬまおきつぐも将軍しょうぐんではなく老中ろうじゅうです。また、田沼の政治は三大改革には数えません。

政策の取りちがえ

目安箱めやすばこ・上米あげまいの制・公事方御定書くじかたおさだめがきは享保きょうほうの改革かいかく、囲い米・棄捐令・寛政異学かんせいいがくの禁は寛政かんせいの改革かいかく、株仲間の解散・人返しの法・上知令は天保てんぽうの改革かいかくです。とくに株仲間は、田沼意次たぬまおきつぐが「認めた」のに対し、水野忠邦みずのただくには「解散させた」ので、どちらの政治の話かを必ず確かめましょう。

確認問題

答えを考えてから、問題をタップして答えと解説を確かめましょう。

享保の改革

  1. Q1徳川吉宗とくがわよしむねが8代将軍しょうぐんとなり、享保きょうほうの改革かいかくを始めたのは何年でしょう。

    1716年

    享保きょうほうの改革かいかく(1716年)。8代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねが行った政治の改革かいかくです。ごろ合わせ: ひなんいろ(1716)いろ、享保きょうほうの改革かいかく

  2. Q2『享保きょうほうの改革かいかく』の中心人物は何でしょう。

    8代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむね

    『享保きょうほうの改革かいかく』の中心人物は8代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねです。ほかは寛政かんせいの改革かいかくが老中ろうじゅう松平定信まつだいらさだのぶ、天保てんぽうの改革かいかくが老中ろうじゅう水野忠邦みずのただくにです。

江戸時代前期の一問一答でもっと解く

寛政の改革・天保の改革

  1. Q1『寛政かんせいの改革かいかく』が起きたのは何年でしょう。

    1787年

    寛政かんせいの改革かいかく(1787年)。老中ろうじゅうの松平定信まつだいらさだのぶが、天明てんめいのききんで乱れた世の中と幕府ばくふの財政を立て直すために行った改革かいかくです。ごろ合わせ: ひなんはな(1787)はだしい、寛政かんせいの改革かいかく

  2. Q2『天保てんぽうの改革かいかく』が起きたのは何年でしょう。

    1841年

    天保てんぽうの改革かいかく(1841年)。老中ろうじゅうの水野忠邦みずのただくにが、天保てんぽうのききんのあとの社会と幕府ばくふの財政を立て直すために行った改革かいかくです。ごろ合わせ: いやよ、い(1841)きすぎた倹約 天保てんぽうの改革かいかく

  3. Q3『寛政かんせいの改革かいかく』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    天明てんめいのききん

    冷害や浅間山の大噴火で米がとれなくなり、東北とうほく地方を中心に多くの人がうえ死にした大ききんです。「天明てんめいのききん」が「寛政かんせいの改革かいかく」のきっかけになりました。

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つぎのステップ

年代と内容は、教科書・塾教材の記述にそろえた学習用のものです。異説がある年は、年表アプリの項目の中に記しています。まちがいを見つけたらお問い合わせから教えてください。