日米和親条約と日米修好通商条約のちがい

ちがい江戸時代後期外交・世界

日米和親条約と日米修好通商条約のちがいの要点をまとめたイラスト

日米和親条約は、1854年に江戸幕府がアメリカのペリーと結んだ条約で、下田と函館の2港を開き、貿易は認めませんでしたが鎖国が終わりました。日米修好通商条約は、1858年に大老の井伊直弼が朝廷の許しを得ないままアメリカのハリスと結んだ条約で、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開いて貿易を始めることを決めました。修好通商条約は、領事裁判権を認め、関税自主権がない不平等条約でした。

2026/10/11 公開・ふりがなつき

表でくらべる

日米和親条約にちべいわしんじょうやく日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく
結んだ年1854年1858年
アメリカの代表ペリーハリス
開いた港下田・函館の2港函館・神奈川・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうごの5港
貿易ぼうえきのとりきめ貿易ぼうえきは認めなかった自由な貿易ぼうえきを始めることを決めた
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見分けるときは、まず「貿易ぼうえきをするかどうか」を見ます。和親条約は、港を開いてアメリカの船に燃料や水・食料をあたえる約束で、貿易ぼうえきは認めませんでした。修好通商条約は、港を開いて貿易ぼうえきを始めることを決めた条約です。そのうえで、ペリーとハリス、2港と5港をセットで覚えます。

年の順に見る

  1. 1840年アヘン戦争せんそう
  2. 1842年異国船打払令いこくせんうちはらいれいの廃止はいし(薪水給与令しんすいきゅうよれい)
  3. 1853年ペリーが浦賀うらがに来る
  4. 1854年日米和親条約にちべいわしんじょうやく
  5. 1858年日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく
  6. 1858年安政あんせいの大獄たいごく
  7. 1859年開港かいこうして外国がいこくとの貿易ぼうえきが始まる
  8. 1860年桜田門外さくらだもんがいの変へん

1840年に始まったアヘン戦争で、アジアの大国である清しんがイギリスに負けました。これを知った幕府ばくふは、1842年に外国船を打ち払う方針をやめ、日本に来た外国船には燃料の薪や水・食料をあたえて帰らせることにしました(薪水給与令)。ただし、鎖国さこくそのものはその後も続きました。

1853年、アメリカのペリーが軍艦を率いて浦賀うらがに来て、開国を求めました。翌1854年に日米和親条約にちべいわしんじょうやく、その4年後の1858年に日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくが結ばれます。修好通商条約のあとは、1858年からの安政の大獄、1859年の貿易ぼうえきの始まり、1860年の桜田門外の変と、大きなできごとが続きました。

日米和親条約(1854年・ペリー)

アメリカは、太平洋を行き来する船や捕鯨船が、燃料や水・食料を補給できる港を日本に求めていました。1853年、東インド艦隊司令長官のペリーが4せきの軍艦(黒船)を率いて浦賀うらが(神奈川県)に来て、開国を求める大統領の手紙を幕府ばくふにわたしました。幕府ばくふは返事を翌年にのばしました。

1回目の来航2回目の来航
来た年1853年1854年
おもなできごと開国を求める大統領の手紙をわたした日米和親条約にちべいわしんじょうやくを結んだ
年表で「ペリーが浦賀に来る」を見る

1854年、ペリーは7せきの軍艦を率いて再び来て、条約を結ぶよう強くせまりました。幕府ばくふはこれを受け入れ、神奈川(横浜市)で日米和親条約にちべいわしんじょうやくを結びました。

この条約では、下田(静岡県)と函館(北海道)の2つの港を開き、アメリカの船に燃料や水・食料をあたえることを約束しました。また、下田にアメリカの領事を置くことも決めました。貿易ぼうえきは認めませんでしたが、200年あまり続いた鎖国は、この条約で終わりました。幕府ばくふは同じような条約を、イギリス・ロシア・オランダとも結びました。

年号の語呂合わせ1854年

いやごよう(1854)じん、下田と函館の2港を開く

日米修好通商条約(1858年・ハリス)

和親条約で決めた領事として、1856年に下田に来たのが、アメリカの初代総領事ハリスです。ハリスは江戸えどに出て将軍しょうぐんに会い、清しんがイギリスやフランスに攻められていることなどを伝えて、貿易ぼうえきを始めるよう幕府ばくふに強く求めました。

幕府ばくふは朝廷ちょうていの許しを得ようとしましたが、得られませんでした。1858年、幕府ばくふの最高職である大老になった彦根藩主の井伊直弼は、朝廷ちょうていの許しのないまま日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくを結びました。

この条約では、函館・神奈川(横浜)・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうご(神戸こうべ)の5つの港を開いて、貿易ぼうえきを始めることを決めました。幕府ばくふは同じような条約を、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結びました。

年号の語呂合わせ1858年

人はこば(1858)む不平等条約、日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

不平等な点:領事裁判権と関税自主権

日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくは、日本にとって不利な不平等条約でした。入試でよく問われるのは、次の2つです。

不平等な点内容
領事裁判権(治外法権)を認めた日本で罪をおかした外国がいこく人を、日本の法律でさばけない
関税自主権がない輸入品にかける税の率を、日本だけで決められない
年表で「日米修好通商条約」を見る

1つ目は、領事裁判権(治外法権)を認めたことです。日本で罪をおかした外国がいこく人がいても、日本の法律でさばくことができませんでした。日本の国の中なのに、日本のきまりで罰することができなかったのです。

2つ目は、関税自主権がなかったことです。関税とは、外国がいこくから入ってくる輸入品にかける税のことです。その税の率を、日本が自分たちだけで決めることができませんでした。

「領事裁判権を認めた」と「関税自主権がない」は、言い方がちがいます。領事裁判権は外国がいこくに「認めた」もの、関税自主権は日本に「なかった」ものです。逆にしないように気をつけましょう。

条約のあとどうなった?

日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくは、人々のくらしと幕府ばくふの政治の両方に、大きなえいきょうをあたえました。入試では「その後」の流れも問われます。

くらしのその後

  1. 1859年横浜・長崎ながさき・函館で外国がいこくとの貿易ぼうえきが始まる。いちばん取り引きが多いのは横浜、相手はイギリスが中心
  2. 輸出がふえる生糸や茶が大量に輸出され、国内で品不足になる
  3. 物価が上がる物価が大きく上がり、人々の生活が苦しくなる。外国がいこく人を追い払えという攘夷の考えが強まる

政治のその後

  1. 1858年朝廷ちょうていの許しなく条約を結んだことなどに、多くの大名だいみょうや武士ぶしが反発する
  2. 1858〜1859年井伊直弼いいなおすけが反対する人々をきびしく処罰する(安政あんせいの大獄たいごく)
  3. 1860年水戸藩の元藩士らが、桜田門の外で井伊直弼いいなおすけを暗殺あんさつする(桜田門外さくらだもんがいの変へん)

貿易が始まると、日本からは生糸や茶が、外国がいこくからは毛織物や綿織物、武器などが入ってきました。金と銀の交換の割合が外国がいこくとちがったため、日本の金貨が大量に外国がいこくへ流れ出ることも起こりました。

政治の面では、井伊直弼いいなおすけが安政あんせいの大獄たいごくで、長州藩の吉田松陰や越前藩の橋本左内らを処刑しました。この強引なやり方はかえって反発をまねき、1860年の桜田門外さくらだもんがいの変へんにつながりました。幕府ばくふの最高職である大老が江戸城のすぐ近くで殺されたことで、幕府ばくふの権威は大きく傷つきました。尊王攘夷運動の項目もあわせて見ておくと、幕末の流れにつながります。

入試のポイント

  • 下田(静岡県)と函館(北海道)の2つの港を開きました。
  • アメリカの船に、燃料や水・食料をあたえることを約束しました。
  • 貿易ぼうえきは認めませんでしたが、この条約で鎖国さこくが終わりました。
  • 大老の井伊直弼いいなおすけが、朝廷ちょうていの許しを得ないまま結びました。
  • 函館・神奈川(横浜)・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうご(神戸こうべ)の5港を開いて、貿易ぼうえきを始めることを決めました。
  • 外国がいこく人が日本で罪をおかしても、日本の法律でさばけない領事裁判権を認めました。
  • 輸入品にかける税の率を日本だけで決める、関税自主権がありませんでした。

よくあるまちがい

開いた港を取りちがえる

和親条約は下田・函館の2港、修好通商条約は函館・神奈川・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうごの5港です。函館はどちらの条約にも入っていますが、下田は修好通商条約の5港には入っていません。また、5港の神奈川は横浜、兵庫ひょうごは神戸こうべのことなので、「神奈川(横浜)」「兵庫ひょうご(神戸こうべ)」とかっこ書きで覚えておきましょう。

結んだ人を取りちがえる

和親条約はペリー、修好通商条約はハリスです。ペリーは軍艦を率いて来た軍人、ハリスは和親条約にもとづいて下田に来た総領事です。修好通商条約では、日本側の大老井伊直弼の名前もセットで問われます。

鎖国が終わったのは修好通商条約だと考える

鎖国さこくが終わったのは、1854年の和親条約です。貿易ぼうえきは修好通商条約で始まったので、「貿易ぼうえきが始まった=鎖国さこくが終わった」と考えるとまちがえます。和親条約で国を開き、修好通商条約で貿易ぼうえきを始めた、と2段階で覚えましょう。

確認問題

答えを考えてから、問題をタップして答えと解説を確かめましょう。

  1. Q1『日米和親条約にちべいわしんじょうやく』が起きたのは何年でしょう。

    1854年

    日米和親条約にちべいわしんじょうやく(1854年)。再びやって来たペリーと幕府ばくふが結んだ条約です。ごろ合わせ: いやごよう(1854)じん、下田と函館の2港を開く

  2. Q2『日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく』が起きたのは何年でしょう。

    1858年

    日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく(1858年)。大老の井伊直弼いいなおすけが、朝廷ちょうていの許しを得ないままアメリカのハリスと結んだ、貿易ぼうえきを始めるための条約です。ごろ合わせ: 人はこば(1858)む不平等条約、日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

  3. Q3『日米和親条約にちべいわしんじょうやく』の原因やきっかけになったできごとは何でしょう。

    ペリーが浦賀うらがに来る

    アメリカのペリーが4せきの軍艦(黒船)を率いて浦賀うらがに来て、大統領の手紙をわたし、日本に開国を求めました。「ペリーが浦賀うらがに来る」が「日米和親条約にちべいわしんじょうやく」のきっかけになりました。

  4. Q4日米和親条約にちべいわしんじょうやくと日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくのうち、開いた港が『函館・神奈川・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうごの5港』なのはどちらでしょう。

    日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

    日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくの開いた港は『函館・神奈川・長崎ながさき・新潟・兵庫ひょうごの5港』です。ほかは日米和親条約にちべいわしんじょうやくが『下田・函館の2港』です。

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つぎのステップ

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