太閤検地と刀狩のちがい

太閤検地は、豊臣秀吉が1582年に始めた田畑の調査で、とれる米の量を石高で表し、耕作する百姓に年貢を納めさせました。刀狩令は、秀吉が1588年に出した法令で、百姓から刀や鉄砲などの武器を取り上げました。2つの政策で武士と百姓の身分が分けられ、兵農分離が進みました。
表でくらべる
| 太閤検地 | 刀狩令 | |
|---|---|---|
| 年 | 1582年 | 1588年 |
| 目的 | 田畑を調べて、年貢を確実に取る | 百姓から武器を取り上げ、一揆を防ぐ |
| 百姓への影響 | 検地帳に名前が記され、年貢を納める義務を負った | 武器を持てなくなり、農業に専念することになった |
見分けるときは、「何を調べたか・何を取り上げたか」を見ます。田畑を調べて、とれる米の量と耕作する人を記録したのが太閤検地、百姓から刀ややりなどの武器を取り上げたのが刀狩令です。どちらも豊臣秀吉の政策で、百姓のくらしを大きく変えました。
表の「1582年」は、太閤検地を始めた年です。太閤検地は1回で終わったのではなく、秀吉が亡くなる1598年まで全国で続けられました。
年の順に見る
1582年、本能寺の変で織田信長がたおれました。中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、急いで京都へ引き返し、山崎の戦いで明智光秀をやぶって、信長の後継者として力を強めました。
秀吉は同じ1582年から、従えた土地で次々に検地を始めます。1585年には関白となり、1587年にバテレン追放令、1588年に刀狩令を出しました。そして1590年、小田原の北条氏をほろぼして全国統一を成しとげます。太閤検地は全国統一の前に始まり、統一のあとも続けられたことになります。
太閤検地:田畑を同じものさしで調べる
検地とは、田畑の調査のことです。それまでは、田畑の広さをはかるものさしや、米の量をはかるますが、地域ごとにばらばらでした。秀吉はこれを統一し、全国の田畑を同じ基準で調べられるようにしました。
検地では、田畑の面積と土地のよしあしを調べ、その田畑からとれる米の量を石高で表しました。そして田畑ごとに、実際に耕作する百姓の名前を検地帳に記し、その百姓に年貢を納める義務を負わせました。
こうして、だれがどの田畑を耕し、どれだけ年貢を納めるのかがはっきりしました。これによって、貴族や寺社が土地を持つ荘園のしくみはなくなりました。
「太閤」とは、関白を退いた人をさす呼び名です。秀吉は関白の位をおいの秀次にゆずったあと太閤とよばれたので、この検地を太閤検地といいます。
年号の語呂合わせ1582年
以後(15)はつ(82)のものさし統一、太閤検地
刀狩令:百姓から武器を取り上げる
戦国時代には、百姓も刀ややりなどの武器を持ち、一揆を起こしたり、戦いに加わったりしていました。ふだんは農業をしながら、戦いにも出る人が多くいたのです。
秀吉は1588年に刀狩令を出し、百姓から刀や鉄砲などの武器を取り上げました。ねらいは、百姓の一揆を防ぎ、百姓を農業に専念させることでした。
ただし表向きには、取り上げた刀を、京都の方広寺に造る大仏のくぎなどに使うと説明しました。入試では、この「方広寺の大仏」という説明もよく問われます。
年号の語呂合わせ1588年
以後(15)はは(88)なす、百姓の刀
2つで進んだ兵農分離
太閤検地と刀狩令は、別々の政策ですが、合わさって1つの大きな変化を生みました。それが兵農分離です。武士と百姓の身分をはっきり分け、武士は城下町に住んで戦いと政治を、百姓は村で農業をするようにしたことをいいます。
太閤検地で
- 1582年〜田畑を調べ、耕作する百姓の名前を検地帳に記す
- 百姓は土地に結びつけられ、年貢を納める義務を負う
刀狩令で
- 1588年百姓から刀や鉄砲などの武器を取り上げる
- 百姓は武器を持てなくなり、農業に専念する
さらに秀吉は1591年、武士が百姓や町人になったり、百姓が商人になったりすることを禁じました。こうして武士と百姓の身分が分けられていきました。
覚え方
検地で百姓を土地に結びつけ、刀狩で武器を取り上げて兵農分離
江戸時代の身分制度へ
兵農分離は、江戸時代の身分制度のもとになりました。江戸時代の人々は、武士・百姓・町人などの身分に分けられ、身分は親から子へ受けつがれました。
武士は名字を名のり刀を差すことを許され、政治を行う身分とされました。人口のおよそ85%は百姓で、村に住んで年貢を納め、武士の生活を支えました。秀吉の太閤検地と刀狩令で分けられた武士と百姓の身分が、江戸時代の身分制度のもとになったのです。
入試のポイント
- ものさしやますを統一して、全国の田畑を調べた政策です。
- 田畑からとれる米の量を、石高で表しました。
- 実際に耕作する百姓の名前を検地帳に記し、年貢を納めさせました。
- この政策によって、荘園のしくみがなくなりました。
- 百姓から刀ややりなどの武器を取り上げた法令です。
- 百姓の一揆を防ぎ、農業に専念させることがねらいでした。
- 取り上げた武器は、方広寺の大仏をつくるのに使うと説明されました。
- 武士と百姓の身分を分け、それぞれの仕事をはっきりさせたことです。
- 太閤検地と刀狩令によって進みました。
- 江戸時代の身分制度のもとになりました。
よくあるまちがい
どちらが先か、を逆に覚える
太閤検地を始めたのが1582年、刀狩令が1588年なので、太閤検地のほうが先に始まりました。太閤検地は1598年まで続いたので、刀狩令が出たときも検地は続いていました。「始まったのは太閤検地が先」と覚えておきましょう。
織田信長の政策と取りちがえる
太閤検地と刀狩令は、どちらも豊臣秀吉の政策です。信長は1582年の本能寺の変でたおれており、刀狩令の1588年には、もういません。「太閤」は秀吉の呼び名なので、太閤検地が秀吉の政策だと結びつけて覚えましょう(豊臣秀吉)。
楽市・楽座も秀吉の政策だと思う
楽市・楽座は、織田信長の政策です。安土城の城下町などで市場の税をなくし、座の特権を廃止して、だれでも自由に商売できるようにしました。商売を自由にした信長の楽市・楽座と、百姓を土地と農業に結びつけた秀吉の太閤検地・刀狩令を、セットで区別しておきましょう。
確認問題
答えを考えてから、問題をタップして答えと解説を確かめましょう。
Q1豊臣秀吉が太閤検地を始めたのは何年でしょう。
1582年
太閤検地(1582年)。豊臣秀吉が全国の田畑の広さや土地のよしあしを調べ、とれる米の量を石高で表して、耕作する百姓に年貢を納めさせた政策です。ごろ合わせ: 以後(15)はつ(82)のものさし統一、太閤検地
Q2『刀狩令』が起きたのは何年でしょう。
1588年
刀狩令(1588年)。豊臣秀吉が、百姓から刀や鉄砲などの武器を取り上げるよう命じた法令です。ごろ合わせ: 以後(15)はは(88)なす、百姓の刀
Q3『太閤検地』の結果として起きたことは何でしょう。
兵農分離
武士と百姓(農民)の身分をはっきり分け、武士は城下町に住んで戦いと政治を、百姓は村で農業をするようにしたことです。「太閤検地」のあとに起きたできごとです。
Q4太閤検地と刀狩令のうち、目的が『百姓から武器を取り上げ、一揆を防ぐ』なのはどちらでしょう。
刀狩令
刀狩令の目的は『百姓から武器を取り上げ、一揆を防ぐ』です。ほかは太閤検地が『田畑を調べて、年貢を確実に取る』です。
つぎのステップ
年代と内容は、教科書・塾教材の記述にそろえた学習用のものです。異説がある年は、年表アプリの項目の中に記しています。まちがいを見つけたらお問い合わせから教えてください。